
でぱあとまにあ は 2025年6月26日で 公開25周年!!
1.小さくて不思議なホームページも やがて大きな情報の蓄積となる
どのくらいの方々があの賑わいを覚えているだろうか。でぱあとまにあWebサイトが誕生した当時のこと。そう、私たちが住んでいた福島市は1998年にデパート中合福島店の2番館誕生による大増床と、福島VIVREの曽根田地区での大型ショッピングセンターの開業により、福島市の中心市街地が再び活気を取り戻したあのころ。駅前通りが歩行者天国で賑わっていた1980年代にいっとき戻ったかのような、たくさんの買い物客がデパートの買い物袋をたくさん手に持ち、行き交っていた光景。
しかし、それはつかの間の賑わいだった。

1999年、長崎屋福島店の灯りが街から消えた。本当に長い間、そこにあって当たり前だった私たちのシンボルの1つ。今も親交がある知人は当時、長崎屋福島店でアルバイトをしていた。閉店発表後、彼は親の言うことも聞かずほとんど休むことなくアルバイトのシフトに入っていた。
「長崎屋が無くなっちゃうんだぞ!」
彼はそう力を込めて語っていたという。現在、彼は自分のお店を持ち、私もたまにお店に顔を出している。いつも元気そうに働いている好青年だ。
本当にたまたまだった。当時あったデンコードーという家電量販店で、まだ駆け出しだったコンパクトデジタルカメラ、画素数も今とは比べ物にならないほど劣り、撮影可能枚数も涙が出るほど少ないデジタルカメラ。何かを撮りたくてではなく、本当に興味本位で購入してみた。そんなタイミングで長崎屋福島店閉店の報。長崎屋福島店をはじめよく駅前を買い物で利用していた私は大変なショックを受けた。
何か記録に残せないか。
たまたま、手元にあったそのデジタルカメラ。少ないけれど長崎屋福島店の姿を捉えた。手元に、電子的に残った画像データ。これでいつまでも大事にとっておける。

2000年、私はインターネットというものを初めて本格的に触った。その頃はまだWebサイトの聡明期。決しておおくは無いが、面白そうなホームページや、小難しい学術的なサイトなどがちらほらと存在していた。自分も作ってみたいな。そう思った。当時契約していたプロバイダが、50MBまでホームページ容量を無料で提供していた。とても難しそうなHTML構文を分かる部分だけテキストで書き書き作り上げたWebサイト。公開当時はまだ、中合福島店と長崎屋福島店撤退という2つのコンテンツだけだったが、手元にあったデジタルカメラで記録していた画像を世界に向けて発信した。その名もでぱあとまにあ。いったい何のホームページか分からない、不思議なWebサイトの誕生だった。
2002年の春。私は仕事が終わったらすぐに仙台駅に向かい、スーパーひたちに乗り込んだ。向かう先は原ノ町駅。常磐線の車窓からも塔屋がみえた原町サティが営業を終了してしまうのだ。相双地方最大の都市だった原町市の街から大型店が消える。いてもたってもいられなかった。

原町サティの最後の夜の姿を見ていると、1人の少女に出会った。きっと近所の小学生だろう。デジタルカメラが珍しかったのか、私に周辺にあるいろんな物体を撮影して見せてほしいとせがんだ。私は彼女の言われるままになんでも撮って見せてあげた。そんなことをしている間に、道路に面した原町サティのシャッターが閉まってしまい、店内に入れなくなってしまった。
「あーあ、お店、閉まっちゃった。」
彼女はとても寂しそうにそうつぶやいた。近くにあるお店が無くなってしまうことに、少なからず悲しいという感情があったのだと思う。あれから23年。もう立派な大人になった彼女は、ふるさとの街にあった原町サティを今でも思い出すことがあるだろうか。そういう想いがめぐる。
年々こつこつとお買い物を楽しみながら、切手収集のように集めてきたお店の画像。いつの間にか10店舗、20店舗、50店舗にも達していた。いつまでもそこにあり続けてほしいと願いながら、再訪を続けていた。しかし、その想いはかなわず、特に地方の街の大型店は万策尽きていく。生活様式の変化に加え都市間競争、東日本大震災、新型コロナが追い打ちをかける。
そして、ついに2020年8月末、でぱあとまにあのバイブルともいうべき百貨店、中合福島店がその歴史に終止符を打つ。営業最終日に店内を見て回っていると、二十年来の親友の姿があった。いつも定期的に会ってはいたが、大好きな中合福島店の最後の日にこの場所で出会ったことに、不覚にも目にたくさんの涙を溜めてしまった。相手は
「やっぱりいたな。」
と満面の笑顔だったのに。自分はその笑顔に、世界のどこでもないこの場所で出会ったうれしさに、はたして応えられたのであろうか。

気がつけば中合福島店が姿を消してから5年。2025年になっている。そう、2000年のWebサイト公開開始から四半世紀の歳月を経た。モバイル端末で気軽にWeb閲覧できるようになった現代においても、SNSでアピールする場面が増えても、まだまだ認知度の低いでぱあとまにあ。でも、商業クラスタのヒーローでは無くても草分けのWebサイトであるという自負はある。350店舗以上でお買い物を繰り返し続けてきた四半世紀はだてじゃない。もはや、私の人生とともに歩んできたと言っても過言ではないでぱあとまにあは、これからもその歩みを止めない。いつかは、小さくて大雑把だけど図鑑みたいだね、そう言われるようなそんなWebサイトを目指したいな。
これまでの積み重ねをバネに、大きな躍動を遂げられるように。
2.このWebサイトの 見どころとはいったい何なのか
でぱあとまにあの見どころは、本来閲覧者の方々が寄せていただけるものではあるのだが、なかなかそのお声を頂戴する機会が少ない(無いわけではない)。そこで、自薦にはなるが反響のおおかった3つのコンテンツをあげてみる。
第3位 マリーン5清水屋
中合清水屋店撤退を受けて、地元にデパートを残そうと必死に奮闘した姿。その鮮やかさは最後まであせることは無かった。そんなひとこまを捉えたコンテンツ。
第2位 中合福島店営業最終日
私が大好きだった中合デパート。いつも街に当たり前にあった中合デパート。福島市のシンボルが私の目の前で灯火を落とすその瞬間を目に焼き付けたコンテンツ。永久保存版。
第1位 イトーヨーカドー福島店営業終了
これは時間を割いた挑戦だった。福島駅前で最後まで奮闘したイトーヨーカドー福島店を、テレビのドキュメンタリー番組の構成を意識してとにかく捉え続けたコンテンツ。記事では触れていないが、はるか遠方からフォロワーさんが駆けつけてくれて、ともに最後のシャッターが閉まるのを見届けた思い出の場所。
もちろん、街の大型店が姿を消すシーンばかりが見どころではない。あの場所、あの時あったお店、今も地域に根差して輝いているお店がたくさんある。このWebサイトでぜひ隅々までその姿を見てほしい。そして訪れてほしい。
3.やっぱり 自分自身がワクワクしないとね
これは常々お話していることだが、Webコンテンツを積み重ねるにあたり、みなさんがワクワクした気持ちになるには、まず自分自身がワクワクした気持ちにならないといけないと思っている。有名な企業だって、カスタマーをワクワクさせるビジョンを掲げている。ワクワクは大きな力。
初めてのお店にショッピングに出かけるときは、ほとんど下調べをしない。とにかく行ってみて、初めて目にするその姿にワクワクする。どんなものがどこに売っているだろう。どうしても回遊しているうちに1つまた1つと購入したくなってしまう。
だって、欲しいものがそこにあるのだから。
そんなワクワク。楽しみながらショッピング。ワクワクをそのまま持ち帰って、ゆっくりと時間をおいて、でぱあとまにあの制作にとりかかる。そして気がつく。あ、あの場所にはこんな魅力もあったんだ。いわゆる取りこぼしも当たり前。でもいいのだ。次に行く楽しみ、ワクワクがまた増える。
そんな調子ででぱあとまにあを運営している。コンテンツのデザイン1つとってもワクワクしながら作っているんだ。

他にワクワクはあるかな?
お店にたどり着くまでの景色、お店の近くの癒しスポット。お店でお買い物している人たちの楽しそうな姿を目にすること。会計時の店員さんの満面の笑み。お店でお願いした宅配が届いた瞬間。ワクワクが増えるほど感じる幸せの数がおおくなる。
そういえば、幸せ売ってるデパートが近くにある。郡山市のうすい百貨店。何人か仲良しの店員さんがいるけど、ふとあれが欲しいなぁとつぶやくと、期待を裏切らずに案内や提案をしてくれる。本当に夢のデパートだね。今では私のMy Department Storeとなっている。たくさん買っても、両手に買い物袋がいっぱいになっても、5,000円以上のお買い上げならお店の人に相談すれば福島市曽根田のMAXふくしま3階にある、うすい百貨店福島営業所まで届けてくれる。
4.そもそも 新幹線で毎日通うとは どういうことなのか
ところで、私は学生の頃から、自宅のある福島市から学校や職場のある仙台市まで、東北新幹線で通っていた。いわゆる新幹線通勤(新幹線通学)である。このこともまた、私にとってのライフワークともいえる行動様式であった。だからといって、華やかな仙台市でショッピングを楽しんでいたわけではなかった。授業や業務が終わるとすぐに新幹線で福島市に戻り、夕刻の駅前通り、特に中合や長崎屋に立ち寄ってお買い物を楽しんでいた。中合福島店は一時期20時まで営業していたので、少し帰りが遅くなっても大好きなデパートに立ち寄れた。福島市の街でのお買い物には好都合だったのである。

福島市に居を構え、福島⇔仙台に移動基幹軸を据えていたことは、でぱあとまにあにとっての重心であった。南東北3県は手軽に見て回れる。庄内地方は若干遠かったが、特に当時はたどり着けないほどのはるか彼方ではなかった。北東北地方にも足を延ばせ、青森県まで日帰りの範囲。また栃木県や茨城県までも日帰りや1泊で巡ることができるようになった。そこで目にしたお店のワクワクも忘れられない。
でぱあとまにあは、長らくは常識的な行動範囲での展開としていた。いわゆる管理が大変なことが想像できたからだ。大好きなお店は何度でも繰り返し行きたい。だから、地元の福島県を中心としたテリトリーを設け領域内を何度も見てまわっていた。
興味のあったスズラン百貨店まで追いかけ、群馬県までコンテンツが拡大した。東北6県と北関東の3県。果たしてこれを東北/北関東というくくりで表現して良いのかと考えた。一般的に北関東を指し示すのはどこまでだろう。頭の中に埼玉県がよぎる。
埼玉県にはほとんど土地勘がなかった。しかし、多くの街と大型店があることは自明であった。とても全部行きたい場所を巡れる自信はない。おおいに自重した。ゆかりのある丸広百貨店だけをスポットでお買い物したのが、せめてもの行動だった。
しかし、まもなく大きな転機が訪れる。みなさまもご存じの衝撃的な大宮転勤。

さらに衝撃を与えたのは福島市からさいたま市への新幹線通勤の続行。福島市民であり続けるにはこの選択肢しかなかった。移動基幹軸が福島⇔大宮に変更された。劇的な環境変化。ここからでぱあとまにあはさらに加速度的に躍動へと転じる。
埼玉県でのショッピング巡りを開始。土地勘はないし、前提知識もほとんどない。しかし、大宮駅を拠点として何度も何度も同じ地域をめぐり、お買い物をして、本当に真新しいワクワクを胸にする。フォロワーさんの力を借りて、ついに秩父の矢尾百貨店まで到達。矢尾百貨店は特に感動した。地域に根差し地域とともにある矢尾百貨店。見ただけですぐわかる。
埼玉県のあちこちを見て、聞いて、話して、買って、贈って。これででぱあとまにあは正真正銘の東北/北関東をテリトリーとして看板を出せるようになった気がする。福島県を囲いたかったので、新潟県もお買い物をして巡ってみた。
新幹線で毎日通うということ。それは私にとって居住地である点のみならず、お買い物を楽しむ移動基幹軸をしっかりと据えているということである。
5.ありたい姿に向かって 躍動する光とは
でぱあとまにあのありたい姿とはなんだろう。先に述べた図鑑のようにとは、最終到達地点。今はまだまだ道半ば。25年、四半世紀という時を経て、決しておおくはないが支持されてきた閲覧者のみなさんの後押しを自信に変えて、でぱあとまにあは躍動をこれからも続けていく。

このWebサイトのテリトリーと言うべき地域へは何度でも足を運び、何度でも何度でもお買い物をしたい。そして、少しずつでも良いのでその変化を捉えていきたい。これは守りに入るのではない。実際に足を運ぶ。自分の目で確かめる。確かめたものを調べる。そして蓄積する。そうすることで、このWebサイトはより深化していく。
そして大きな一歩を1つまた1つと踏み出していきたい。大きな目標は小さな目標の積み重ね。かつて4年間私が住まいをおいた約束の地、千葉県でのお買い物をスタートする。これは大きな一歩、大きな挑戦だが、東北/北関東というテリトリーを超えて、でぱあとまにあは新たな一歩を踏み出す時がきた。常に新しいコトを求める姿勢を絶やしてはいけない。歩みをとめれば、あとは停滞と衰退だけが待っている。
大切なこと。でぱあとまにあの大きな使命。それは、このWebサイトが生まれたときには、福島市にはまだたくさんのデパートがあり、街は賑わっていたんだよ。その姿をこのWebサイトに残していく。再び、その光が少しでも取り戻される一縷の望みを持ち続けて。
2025年 1月吉日
でぱあとまにあ公開25周年を迎えるにあたり
でぱまに ここに記す
6. 25年前と今の福島市の通り
当サイトが公開された2000年6月、そしておよそ25年経過した2025年4月の福島市の街の様子を比べてみてみましょう。街はどのように変化していったのでしょうか。
(1)駅前通り
駅前通りを、福島駅東口出口タクシープールから見た様子です。

2000年には通りの両側にはアーケードがあり、駅正面にデパートの中合福島店一番館(辰巳屋ビル、画像右)が大きくそびえたっていました。その後ろには中合二番館(平和ビル)、さらに中小の店舗が通りに並んでいて、この頃はまだ福島市で一番賑わっていた通りでした。

2025年の駅前通り。再開発の名のもと、通りの南側(画像右)の建物群はことごとく取り壊され、虚無の空き地のみが広大な空の下さらされている状況です。今後、人の流れが戻ることがあるのでしょうか。
(2)信夫通り
国道13号線の平和通りとの交差点を山形方面(信夫山方向)から見た様子です。

2000年には、奥の白い塔屋があるニュー福ビルの長崎屋福島店が撤退したばかりでしたが、シティホテルである「東急イン」が引き続き営業していました。左側には農林中金とさくらんぼマークが目印のファッションビル「コルニエツタヤ」、右側には手前に着物の若狭屋の建物があるのが分かります。その奥の旧山田百貨店の建物は一時的にモデルルームとしてフロア貸ししていたようです。

2025年、画像左側には福島県立医大看護学科の大きなビルが建設されています。その奥にわずかに見える商業テナントビルAXCは、売り場が開業当初の4階までから3階までに縮小され、ところどころ空きフロアも目立つ状態になっています。上層階はオフィスフロアや「ホテル クラウンヒルズ福島」が営業。着物の若狭屋の建物はコインパーキング、奥の旧山田百貨店の建物は福島学院大学のキャンパスとして活用されています。
(3)レンガ通り
レンガ通りを、パセオ通り交差点から東向きに見た様子です。

2000年、画像右に写りこんでいるオレンジの看板は履物屋さんでした。ここはやがてコンビニエンスストアローソンになり、その後レオパレスの事務所へと変遷してきました。東邦銀行本店営業部が良く見えますが。

2025年、元履物屋さんの一角は「テナント募集」。ほかのテナント群も様変わりしています。左側の常陽銀行が力強い建物になったのに加え、街路樹も成長したのか、東邦銀行本店営業部が視界に入っていない(ちゃんとあります)。
(4)パセオ通り
駅前通りとの交差点を北方向に見た様子です。

2000年の様子。黄色い傘屋さんマスキンが目立ちます。左側はエンドーチェーン福島店跡地で、この頃はまだ舗装されただけの広場として活用されていました。通りの名前はパセオ470で、車道にははスピードが出ないように凸部分が複数設けられておりました。

2025年、エンドーチェーン福島店跡のビル建設構想(市の都市計画)は断念され、恒久的な広場として整備されました。黄色いマスキンは数年前に閉業し、かつての繁華街スズラン通り、パセオ通りもコインパーキングが目立つようになりました。
(5)文化通り
パセオ通りとの交差点から東側をみた様子です。

2000年の文化通り。パセオ通りとの交差点にはロッテリアが店を構えていました。カバン店や雑貨店、飲食店が並ぶオシャレな路地でした。

2025年も通りの様子は変わっておらず、ある程度店舗の入れ替えがあったものの、それらの中小店舗で買い物を楽しむ人々が特に休日には少なからず行き交っています。なお、画像右にあったロッテリアは閉店し、このロッテリアの閉店をもって長らく福島市にはロッテリアの店舗が無い状態がきましたが、駅ビルのエスパルにロッテリアが再進出しています。
(6)中央通り
パセオ通りとの交差点から東側をみた様子です。

2000年の中央通りは、いわゆる福島市歓楽街の1つ。画像のように通りにゲートもあり、通りの街灯も丸型が整然と並んでいました。

2025年の様子。アーチは撤去され、街灯も目立たないものになっています。建物も取り壊され駐車場になったり、外壁の装飾が変わったりと、雰囲気はかつての通りの面影を残しながらも、様子はかなり変わっています。
(7)万世町通り
県庁通りとの交差点から西側をみた様子です。

2000年の万世町通り。車道の方向矢印が左折と右折しかなく、ここが突き当たりだった。左はあんざい写真館。右手奥には福島銀行本店が写っている。

2025年はご覧のとおり、この通りは国道4号線まで貫通している。あんざい写真館は25年前と様子が変わらず、福島銀行本店の手前にはマンションが建設されたことが分かる。
(8)県庁通り
県庁通りをレンガ通りとの交差点から北側を見た様子です。

2000年の県庁通り。大町周辺はかつての福島市の最大の繁華街だった。中合デパートの移転、福島交通上町バスターミナルの廃止、奥に見える交差点はかつてスクランブル交差点だった。そんなときからだいぶたっており、アーケードがかつての賑わいの面影を残している。左には銘店三万石の直営店。両脇には多数の店舗が並んでいた。

2025年、特に通りの右側の様子がいっぺんしている。これは、大原総合病院の移転に伴い建設された複合ビル。その奥は、耐震診断で使用不可となった文化堂のビルが建て直されたもの。左側にあった三万石は、画像手前にあたるホテルルートインに移転後閉店。旅行代理店HISがしばらく営業も店舗集約による撤退で、今この場所は薬局になっている。なお、歩道のアーケードは新製され、かつての繁華街の面影を今に至っても残し続けている。
(9)平和通り
国道13号線平和通りをパセオ通りとの交差点から東側を見た様子です。

2000年の国道13号線平和通り。長年にわたって建設されていた平和通り地下駐車場がようやく稼働開始した時期だが、時すでに遅く人々が街へ出向く足は遠のいていた。

2025年の様子だが、2000年は当時まだあった歩道橋の上からの撮影だったので、視点がやや異なる。画像からは分からないが、七十七銀行福島支店が、2000年当時と通りを挟んだ反対側の建物に移転している。

これはおまけ画像だが、平和通りにあるシンボル時計。平和通り地下駐車場建設に伴い、元々あったシンボル時計も取り壊されたが、市民から平和通りのシンボルとして再設置してほしいとの要望を受け、新しく同じデザインで復活した。
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